予告なしのサプライズリリース
「トムとジェリーとヘイターと私」は、2026年10月21日にCreepy Nutsが突如配信リリースした新曲だ。事前の告知は一切なく、各配信サービスでの配信開始と同時に、YouTubeでもフル尺の音源が公開された。作詞はR-指定、作曲はDJ松永が手がけている。
直前の新曲は8月19日に配信された「Running Wheel」で、そこから約2ヶ月ぶりの楽曲になる。11月20日には北米ツアーを追った初の映画作品の公開が控え、2027年2月からは全国アリーナツアーも始まる。大きな動きが続くタイミングで、あえて告知なしに投下されたという点も、この曲の”ゲリラ感”を象徴している。
タイトルが示す関係性
タイトルに置かれた「トムとジェリー」は、猫とネズミが毎回ドタバタの追いかけっこを繰り広げながら、どこか離れられない関係を描いたアニメだ。「喧嘩するほど仲がいい」という日本語の定番表現を、そのまま絵にしたような二人組と言える。
ここに「ヘイター」と「私」を並べることで、批判する側とされる側を、単純な敵対ではなく”長く続く腐れ縁”として描き直している。タイトルの時点で、この曲が悪口への反撃ではなく、ヘイターとの関係性そのものを歌う曲だと宣言していることになる。
ここで興味深いのが、並び順だ。タイトルでは「トムとジェリー」が先に来るのに対し、歌詞の冒頭では「ヘイターと俺ら」が先で、トムとジェリーは比喩として後ろに置かれている。歌詞は「現実の二者が、まるで比喩のようだ」という順で語られる一方、タイトルは映画や小説の題名のように”登場人物を並べる”型になっている。有名な象徴を先に出し、読み進めるうちに「ヘイターと私」がそこへ重なっていく、という仕掛けとも読める。
一方で、タイトルでも歌詞でも、ヘイターが自分より先に呼ばれている点は共通している。自分よりも先にヘイターを立てる並びは、ヘイターを”特等席の観客”や”共同制作者”として扱うこの曲の姿勢とよく合う。もちろん、並び順について本人たちが語っているわけではなく、あくまで聴き手としての一つの読み方だ。
「Running Wheel」との対比
直近の「Running Wheel」では、何も知らずに口を挟む外野を一蹴し、走り続ける自分たちとの対比が軸になっていた。外野は”無視して置いていく存在”として扱われていたわけだ。
一方、今作ではヘイターが”特等席から見ている観客”として描かれる。痛いところを突かれて思わずニヤッとしてしまう、といった余裕のある反応も描かれており、批判を受け流す姿勢は共通していても、距離感はまったく違う。8月の曲が「置いていく」物語だとすれば、10月の曲は「一緒に走ってくる」物語だ。わずか2ヶ月の間に、同じ外野への視線がここまで変化している点は見逃せない。
「ヒップホップじゃない」という永遠のくだり
歌詞の中盤では、バズを生み、記録を残し、常識を塗り替えるたびに「あれはヒップホップじゃない」という声が上がる、というお決まりの流れが描かれる。そしてそれを、死ぬまで続けようという調子で笑い飛ばしている。
成功すればするほど批判も大きくなるというのは、Creepy Nutsに限らず、国内外で活動の場を広げてきたアーティストが必ず通る道だ。その構図を、怒りではなく”毎度おなじみの恒例行事”として扱ってみせる余裕が、この曲のトーンを決定づけている。
老いても続く関係──時間軸の拡張
この曲の面白さは、時間軸が一気に未来へ飛ぶ点にある。カツラや白髪、入れ歯、唾を飛ばしながらの憎まれ口といった老人の姿が描かれ、何が気に入らなかったのかさえ思い出せなくなっても、孫やひ孫が引くほどムキになって言い合う姿が想像される。最後は血管が切れて棺に入るところまで描き切ってしまう。
さらに、互いに”残すレガシー”は二人の関係そのものだと語られ、ヘイターの忠誠心を忠犬ハチ公になぞらえる。命日が終戦記念日になる、という一節は、どちらかが亡くなるまで続く”戦い”が、二人が揃って世を去る日にようやく終わる、という意味合いにも読める。ブラックユーモアを含みながら、批判者への奇妙な愛情が最大限に表現された部分だ。
ヘイターは”共同制作者”である
後半で特に印象的なのが、ヘイターを「共同制作者」と呼び、曲作りに参加させたい、とまで言い切る点だ。ヘイターの存在があるからこそ筆が進む、という告白は、批判がクリエイターにとって単なるノイズではなく、創作のエネルギー源にもなっていることを示している。
しかもそれは、ファンや仲間のことを思うより筆が走る、とまで語られる。感謝にも皮肉にも聞こえるこの一節は、表現者としての正直な実感だろう。同時に、悪意ですら真剣白刃取りのように受け止めて立ち続ける、という強気な態度も顔を出す。
「敵ではない」という距離感
繰り返される呼びかけの中で、ヘイターは「敵とは違う」存在として再定義される。毎回新鮮にムカつくが、いないと困る。そんな矛盾した感情が、リズムに乗って畳みかけられる。
終盤では、名前も顔も知らないのに、なぜか似た者同士だと分かる”お友達”として語りかけ、うまくいかない毎日の憂さ晴らしやはけ口として自分を使ってくれていい、とまで受け入れる。そして最後は、自分も同じようにクソ野郎だと認めた上で、誰にも認めてもらえない日があったら吐き出してくれ、と呼びかける。攻撃的な言葉で始まった曲が、最終的には”弱っている相手への呼びかけ”で終わる構造は、この曲の一番の聴きどころだと思う。
「ヒップホップか?」という問いへの、もう一つの答え
この曲を聴いて印象に残るのは、歌詞の言葉選びに2010年代のR-指定を思わせる質感がありながら、全体のトーンが驚くほど柔らかいことだ。ヘイターを突き放すのではなく、弱っている相手まで受け止めようとする姿勢は、攻撃的なライムで名を上げた頃とは違う、父性にも似た”すべてを包み込む感じ”を帯びている。
そしてもう一点、DJ松永のトラックが、いわゆる王道のヒップホップの型にはまっていないという印象も受ける。ここで先ほどの「あれはヒップホップじゃない」というくだりが効いてくる。歌詞の中では、そう言われ続ける未来を笑って受け入れている。にもかかわらず、トラックまで型どおりのヒップホップに寄せないという選択は、「Creepy Nutsはヒップホップなのか」という長年の問いに対する、一つのアンサーとして機能しているのではないか。
つまりこの曲は、言葉の上で批判を笑い飛ばしているだけでなく、音の選び方でも「ジャンルの定義は外野が決めることではない」と示している、という読み方ができる。もちろん、これは聴き手としての一つの解釈であり、本人たちが公式にそう語っているわけではない。ただ、歌詞とトラックの両面から同じ方向を指しているように聞こえる点は、この曲の大きな特徴だと言えるだろう。
まとめ
「トムとジェリーとヘイターと私」は、
- 批判する側を”敵”ではなく、腐れ縁のパートナーとして描き直した曲
- 「Running Wheel」で見せた外野への視線を、わずか2ヶ月で反転させた曲
- 老いて棺に入るまで続く関係を想像することで、批判の意味を笑いに変えた曲
- 歌詞とトラックの両面から、「ヒップホップか?」という問いに答えているように聞こえる曲
という四つの顔を持っている。ヘイターの存在を創作の燃料として受け入れ、最後には相手の弱さにまで手を差し伸べる。強気なボースティングとは違う、成熟したタイプの”外野との付き合い方”を提示した一曲として、今後のアルバムやツアーでどう位置づけられるのかも気になるところだ。
